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自分を信じる事!

自分の前にいっぱい敵があらわれた時、振り返って見るがいい。
味方だっていっぱいいるものだ

                     生田長江





周りを見たら敵だらけ・・・

それは、己が勝手に思っているだけの事・・・


しっかりと積み重ねたものがあれば・・・


仲間は必ずいる!


自分を信じるんだ!

やっている事は、きっと間違っていない・・・


wikiーーーーーーーーーーーーーーーーー

生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、小説家。

父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。

本名は弘法大師に因んだ『弘治』なのに、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。

一高時代から雑誌へ投稿し始め、大学時代には上田敏・馬場孤蝶の『藝苑』誌の同人となり、上田から『長江』の号を貰った。

1906年(明治39年)(24歳)、東大を卒業し、1907年、鳥取県の亀田藤尾と結婚して与謝野鉄幹・晶子夫妻の隣に暮らし、麹町区飯田町にあった成美英語女学校の英語教師を、1909年の閉鎖まで勤めた。

この頃の数年間、女性の文学の振興に努めた。1907年夏、一高以来の森田草平と、成美英語女学校の経営主、九段中坂下(現・千代田区九段)のユニヴァーサリスト教会で、女性のための文学講習会『閨秀文学会』を開いた。馬場孤蝶、与謝野晶子、赤司繁太郎らが講義し、大貫かの子、青山菊栄、平塚らいてうらが聴講したが、年内に閉講した。

1909年から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を翻訳し、1911年年初に刊行した。その9月に創刊した平塚らいてうらの『青鞜』誌を、1913年まで後押しした。生田春月、佐藤春夫を門弟とした。

1914年(大正3年)(32歳)、初めは森田草平と共同編集で、『反響』誌を創刊した。翌年の同誌の廃刊後、ニーチェ全集の翻訳を志し、1916年から1929年までに、全10巻を出版した(訳書の項参照)。

また、1914年頃から堺利彦や大杉栄と交わり、批評の目を社会問題へも広げた。1916年、『自然主義前派の跳梁』などで、『白樺派』を論難した。1919年、資本論第一分冊を翻訳出版するなど、社会主義に近付いて、1923年頃から離れた。1919年に島田清次郎の『地上』を、1921年に、高群逸枝の『日月の上に』を評価したが、師弟関係は結ばなかった。

1922年(大正11年)(40歳)、『釈尊傳』創作の準備を始めた。1925年から1930年まで、鎌倉の由比ヶ浜に住んだ。ハンセン病が、容貌が崩れるまでに進んでいた[1]。

1929年(昭和4年)(49歳)、ニーチェ全集を完結し『釈尊傳』の執筆を始め、1934年の失明にひるまず、1935年、『釈尊上巻』を刊行した。また、『新訳決定普及版 ニイチェ全集 全12巻』を1936年にかけて出版した。

1936年(昭和11年)新春、渋谷区の自宅で亡くなった。聖伝院長江棹舟居士。喜福寺(現・東京都文京区本郷5丁目)で葬儀を行い、鎌倉長谷寺の高台の墓域に、1917年に亡くなった藤尾夫人の遺骨と共に埋葬した。

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

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