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努力って何?

少々の努力では誰も気づかない。

            橋下徹




自分ではしっかり努力している!

って思っているうちは、まだまだ・・・

形の無い物を表現するのは本当に難しい。




努力=継続?


継続していく事が努力なのか?

それとも寝る間を惜しんでやる事が努力なのか?

努力って誰かに認めてもらうものなのかな?

精神論は本当に難しい・・・




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橋下 徹(はしもと[注釈 1] とおる、1969年6月29日 - )は、日本の元タレント(タイタン所属)、政治家。弁護士(大阪弁護士会所属 登録番号25196)。大阪維新の会代表。大阪市長(第19代)。前大阪府知事(民選第17代)。
東京都渋谷区幡ヶ谷の六号坂通り商店街近くのアパートで幼少期を過ごした[1]。物心ついた頃には両親が離婚しており、母子家庭の長男として、四つ下の妹を含めた三人家族で育った[2]。

橋下が小学2年生の時、暴力団組員の父親が自殺[3]、母親が苦労して家計を支えた。小学5年の頃大阪府吹田市に引っ越し、1年後に大阪市東淀川区に移り住んだ。府営住宅から地元の公立学校に通った[4]。

実父については後述。

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

本気の自分は一瞬!

人のやったことは、まだ人のやれることの百分の一にすぎない

                    豊田佐吉




自分が今までやった事は、

自分でやれるほんの少しなのかもしれない・・・

いつも本気でやれたらいいのにって思う事が多々ある。

しかし、飽き性な所がそれを邪魔する。

もっとしっかり打ち込めるものがあればいいのだが・・・

年とともに少しは良くなってきているが・・・まだまだだな・・

滝にでも打たれようかな。





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豊田 佐吉(とよだ さきち、1867年3月19日(慶応3年2月14日) - 1930年(昭和5年)10月30日)は、日本の実業家、発明家。
慶応3年(1867年)2月14日 - 遠江国敷知郡山口村(現・静岡県湖西市)の貧しい農家兼大工[1]の家に生まれた。
佐吉は小学校を卒業した後、父伊吉のあとを継いで大工の修業を始めたが、十八歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な機織機の改良を始めた[2]
明治23年(1890年)11月 - 「豊田式木製人力織機」を発明。
明治27年(1894年)- 愛知県知多郡乙川村(現・愛知県半田市乙川町)の庄屋七代目石川藤八の屋敷[3]に身を寄せ、新型力織機の研究を本格的に始める。
明治30年(1897年) - 「豊田式木製動力織機」を発明。石川藤八は6000円を出資[4]。佐吉は60台の木製動力織機を製作、藤八の紡織会社「乙川綿布合資会社」に納入する。
明治32年(1899年) - 井桁(いげた)商会設立。
明治40年(1907年) - 動力織機製造を目的として三井財閥の支援で豊田式織機株式会社(現豊和工業)を設立。
明治43年(1910年)5月 - 紡織業視察のため欧米へ。
大正7年(1918年)1月 - 豊田紡織株式会社創立。
大正10年(1921年)11月 - 東洋綿花(後のトーメン)の支援を受けて上海に豊田紡績廠創立。
大正13年(1924年) - 「G型無停止杼替式豊田自動織機」発明・完成。[5]
大正15年(1926年)11月 - 株式会社豊田自動織機製作所創立。
昭和5年(1930年)10月30日 - 死去。

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

一歩でも前に進めればいいのだが・・・

間違いと失敗は、われわれが前進するための訓練である。

                  チャニング・ウィリアムズ




間違いや失敗は誰にでもあるもの・・・

その間違いや失敗をまずは繰り返さない!

そして、それをしっかり糧にして前進できれば
必ず成功すると思う。

何が成功?!

それは、自分が思い描いた通りにいった時かな・・・


どうにかなるとは、思うが・・・




しかし・・・
月末になると支払いがきついな。
月末は、いつも気持ちが落ち込んでる。

早く終わらないかな・・・




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チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams、維廉、1827年7月18日-1910年12月2日)は、米国聖公会の宣教師。日本聖公会初代主教。日本各地に複数の教会や学校を設立するなど、日本聖公会の発展に力を尽くした[1]。墓碑に記されている「道を伝えて己を伝えず」という言葉の通り、ウィリアムズは自分について知られることを嫌っていて、それは日本から帰国する際に自分に関する資料を燃やしてしまったほどだという
1827年7月18日、アメリカ合衆国東海岸のヴァージニア州リッチモンドで弁護士のジョン・グリーンとメリー・アニーの間に三男、第五子として生まれる[5]。出生後まもなく同地の教会で洗礼を受け、その教会の牧師で当時の米国聖公会バージニア教区の主教であったリチャード・チャニング・ムーア(英語版)の名前から、洗礼名をチャニング・ムーアとした[6]。

ウィリアムズが19歳になった頃、大学の学費を稼ぐためにケンタッキー州ヘンダーソンでウィリアムズの兄が経営している雑貨店にて働き始める。1850年、蓄えた学費でウィリアム・アンド・メアリー大学に入学し、1852年7月に優秀な成績で卒業[7][8]。同年秋にはバージニア神学校(英語版)に入学する[9]。神学校在学中に伝道への情熱を養ったウィリアムズは、1955年に神学校を卒業し[10]、当時中国への伝道を開始しようとしていた米国聖公会で、同級生であったジョン・リギンズとともに中国への派遣を名乗り出、受理される

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

変われるか?

その日その日が一年中の最善の日である。
 
              ラルフ・ワルド・エマーソン





毎日毎日同じ事の繰り返し・・・

違う自分を見つける為に、

いつもと違う音楽、

いつもと違う絵を見る

いつもと違う・・・

新しい発想が生まれるかも・・・

ただ期待以上には何も無い事はわかってる

でも何か 変えなければ 流れが悪すぎる!





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ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。 ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ラルフ・ワルド・エマソン、とも呼ばれる。 英語では、エマーソンのエにアクセントがあり、エマソン、またはエマスンに近くなる。

アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。 18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。 その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。 自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

闇夜は人を暗闇に引きずりこむ・・・

君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて、無駄にする暇なんかない 

                       スティーブ・ジョブズ




まずは、自分をしっかり固めない限り

人なんて助けられないし、手伝う事も出来ない

今の自分は、助けられているだけ・・・

人を助けたいと偉そうに言いたいが

正直、今は自分だけで精一杯

本当に情けない人生を送っていると度々思う。

夜中に書く日記は、本当に後ろ向きでつまらない内容だな・・・





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スティーブン・ポール・ジョブズ(Steven Paul Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家。スティーブ・ウォズニアック、ロン・ウェイン[1]、マイク・マークラらと共に、商用パーソナルコンピュータで世界初の成功を収めたアップル社の共同設立者の一人。また、そのカリスマ性の高さから、発言や行動が常に注目を集め続けた。

ギブンネームをスティーブン、ファミリーネームをジョブスとカタカナ表記することもあるが、アップルジャパン公式サイトでは「スティーブ・ジョブズ」と表記している

1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅のガレージからスタートしたアップル社はシリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。

1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時存在したあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いのために社内を混乱させたとされ、1985年にアップルから追放された。

アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、ワークステーション「NeXTcube」とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。

1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却することで復帰、1997年には、暫定CEOとなる。その後、ライバルとされていたマイクロソフトとの資本連携に踏み切り、社内のリストラを進めてアップル社の業績を回復させた。
WWDC07でのスティーブ・ジョブズ

2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。

暫定CEOに就任して以来、基本給与として、年1ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[2](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は居住地の州法により、社会保障を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安いCEO」とも呼ばれた。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。

2011年10月5日、アップルはジョブズが死去したと発表した[3]。別の報道では死因は膵癌に伴う呼吸停止[4]と報道している[5]。56歳没。

2012年2月11日、第54回グラミー賞で、特別功労賞の一つ「トラスティーズ賞」が授与された[6]。

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ジャンル : ライフ

メンテナンス中

人生にとつて健康は目的ではない。しかし最初の条件なのである。

                      武者小路実篤



身体が一番とはよく言うが、

ちょっと身体を壊しただけでも
本当にそう思う。

もちろん病気になろうとしてなる人は、いないと思うが。


身体にでるサインを見逃さないように・・・


自分の身体としっかりコンタクトとれば、

かなりの予防になるだろう!

身体のメンテナンスを忘れないように!






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武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。

姓の武者小路は「むしゃのこうじ」と読むが、実篤自身は「むしゃこうじ」と名乗っていた。一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。

仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。位階は従三位。文化勲章受章。授与された称号には名誉都民などがある。日本芸術院会員。

東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に武者小路実世子爵の第8子として生まれた。2歳の時に父が死去。子供時代は作文が苦手だった。

学習院初等科、同中等学科、同高等学科を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年(明治41年)、回覧雑誌『望野』を創刊。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれた。実篤はトルストイに傾倒したが、その彼はまた白樺派の思想的な支柱だった。

理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。

この両村は今日でも現存する[1]。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だったころの活動は離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。

1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されるが、4ヶ月後には公職追放の憂き目に遭っている。1948年(昭和23年)には主幹として『心』を創刊し死去する直前まで関った。1951年(昭和26年)には文化勲章を受章している。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名だった。

1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある慈恵医科大学付属病院で尿毒症により死去。満90歳だった。

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もっと賢くならないかな?

借金というものは、人を束縛し、債権者に対して一種の奴隷にしてしまうものである。

                              ベンジャミン・フランクリン



借金と言う物にしっかりと縛られております。

どうにもならない額、

焦りばかり先行してしまいどうにもならない・・・


この奴隷生活は、まだまだ続く・・・


焦れば焦るほど・・・小銭を失い結果的に大きな金額を消費している。

もうちょっと考えて使わないと、
もっと賢くならないものかな?






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ベンジャミン・フランクリン(英: Benjamin Franklin, ユリウス暦1706年1月6日(グレゴリオ暦1706年1月17日) - 1790年4月17日)は、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷がelectricity(電気)であることを明らかにしたことでも知られている。現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、ハーフダラー銀貨にも1963年まで彼の肖像が使われていた。

勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、すべてのヤンキーの父として讃えられる。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つである。

ベンジャミン・フランクリンの父親、ジョサイア・フランクリンは1657年12月23日にイギリスのノーザンプトンシャー、エクトンで鍛冶屋および農民のトマス・フランクリンと妻のジェーン・ホワイトの間に生まれた。フランクリンの母親アビア・フォルジャーは1667年8月15日にマサチューセッツ州ナンタケットで製粉業者および教師のピーター・フォルジャーと妻のメアリー・モリス・フォルジャーの間に生まれた。

1677年頃にジョサイアはエクトンでアン・チャイルドと結婚した。彼らは3人の子供、エリザベス(1678年3月2日生)、サミュエル(1681年5月16日生)、ハンナ(1683年5月25日生)をもうけた。1683年の後半に夫妻はイギリスを発ち、アメリカ合衆国のマサチューセッツ州ボストン市に向かった。

ボストンで夫妻は複数の子供をもうけた。ジョサイア・ジュニア、アン、ジョセフ、もう一人のジョセフ(最初のジョセフは生後すぐ死亡し、弟にその名前が付けられた)。ジョサイアの妻アンはボストンで7月9日に死去し、ジョサイアは11月25日にアビアと再婚した。               

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

運命はわれわれの行為の半分を支配し、他の半分をわれわれ自身にゆだねる。

                         ニッコロ・マキャヴェッリ





運命に操られている気がする時があるが・・・


もちろん!


操られている。


自分で形成していく事の出来る運命は、
プライベートのほんの一部にしかない!


会社等で働いている人は、運命と言う格好の良い言葉で操られる。



自分の運命を切り開くには・・・・


プライベートの時間をしっかり作り!

自分で運命を変えないと・・・


タダの操り人形で終わってしまう。







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ニッコロ・マキャヴェッリ(イタリア語: Niccolò Machiavelli, 1469年5月3日 - 1527年6月21日)は、イタリア、ルネサンス期の政治思想家、フィレンツェ共和国の外交官。

著書に、『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考(ディスコルシ)』、『戦術論』がある。理想主義的な思想の強いルネサンス期に、政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始した。日本語では「マキャヴェリ」「マキャベリ」「マキァヴェリ」「マキァヴェッリ」など様々な表記が見られる。

1469年、法律家の父ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキャヴェッリとその妻バルトロメーア・ディ・ステファノ・ネリの3人目の子として生まれた[1]。マキャヴェッリ家はフィレンツェ共和国の要職を幾人か輩出した名家であり[2]、一説にはトスカーナの旧侯爵家の子孫であるともされる[3]。父ベルナルドは弁護士で年収は百十フォリーノ。貧しい階級のものではないが、絶対に裕福な家庭の者でもなかった。いわゆる中流ではあるが、マキャヴェッリ本人は「私は貧しく生まれた。だから、楽しむより先に、苦労することを覚えた」と後年記している。[4]マキャヴェッリは他の兄弟達と共に父母の愛情に包まれ、上流階級の必須教養であったローマ・ギリシャ古典やラテン語等を学んで育った。その青少年期は、大ロレンツォによる独裁、大ロレンツォ死後に発生したメディチ家追放(1494年)、サヴォナローラの神政とその失脚・処刑(1498年)等、フィレンツェ共和国の激動期に重なる。

1498年6月19日マキャヴェッリはピエロ・ソデリーニ政権下の第二書記局長に選出される。マキャヴェッリが属した第二書記局は内政・軍政を所轄し、自身が各国との交渉に関わることも多い。 同年7月14日「自由と平和のための十人委員会」秘書官に任命される。ほぼ同時期大統領秘書官にも任命される。 この頃、十人委員会からの依頼で、『ピサ問題に関する論考』を書く。かつてピサはイタリアの三大海洋国家であり、海を持たないフレンツェにとっては、ピサの港が自由につかえることが必要であり、 ピサがコントロール下から離れたことが問題となっていた。この難題に対しマキャベリは論考を書物にして四ページ半の小文に、簡潔明瞭にまとめた。 「もしも、フィレンツェが自由でありたいと望めば、ピサは再領有は実現されるべきである」と冒頭で述べ、さらに包囲戦のあり方から、攻撃拠点に配置する兵の数をまで拠点ごとに論じている。

1499年6月、チタ・ディ・カステッロ領主にして傭兵隊長であるパオロ・ヴィテッリをフィレンツェ共和国軍最高司令官に任命し、ピサに軍事侵攻を開始した。 十人委員会は悪評高く選挙さえ行われてなかったため有名無実化しており、その中でマキャヴェッリは大統領と官僚に直接指揮をあおぎ、仕事をこなしていた。 8月16日には、砲撃でピサ市壁を24メートルに及び破壊し、8月10日市壁を守る砦の一つを陥落させる。しかし、再領有目前になったこの時期に最高司令官ヴィテッリが自分の率いる傭兵団を撤退させ、 他の傭兵隊長たちも軍事行動を中断。マラリアで倒れた兵が出たことを期に9月14日完全撤退。 市街戦での兵力消耗を嫌った傭兵隊長らしい行動の結果の崩壊であった。[5] 9月29日ヴィテッリは逮捕される。罪状は、反逆罪(復帰を狙うメディッチ家とそれを支援するヴェネツィア共和国に通じていた)、理由なき戦線離脱、ピサ防衛についていた敵側傭兵隊長を逃したことの3点である。 10月1日ヴィテッリ処刑。 10月15日フィレンツェ共和国は、9月11日にミラノを占拠したフランス王ルイ12世と同盟を結ぶ。 フィレンツェはフランス王がナポリ攻略に必要な5千人のスイス傭兵と5百の騎兵をお金で準備し、代わりにフランス王はナポリ攻略前に、フィレンツェにピサ攻略のためにスイス傭兵5千人を貸し与える(ただし費用はフィレンツェ持ち)という内容だった。

1500年ピサ戦役にマキャヴェッリはフィレンツェ軍顧問の副官として参加。集結地点パルマにきたフランス王の兵は、スイス兵4千人とガスコーニュ兵2千人であった(協約違反)。いざ進軍となったときには、フランスからの援軍はいうことを聞かず、 真っすぐ南下すればピサのところ、東南に進路を取りフランス王が関心のある地域ボローニャ・ミランドン・コレッジオ、カルピと、二ヶ月にわたり軍事パレードをする示威行為に付き合わされた。 6月22日ピサ到着が、フランス兵は周辺一帯の略奪に明け暮れる。フランス王の「助力」を信頼し、フランスとの協約で支払う費用が多額だったため、イタリア人傭兵を全員解雇してのんだ戦役だったため歯止めが効かず、戦場ではフランス兵のいうがままであった。 フランス軍はピサ市壁を破壊するものの、市内への侵攻を拒否したあげく、フィレンツェ顧問アルビッツを拉致して身代金を要求するなど惨状を極めた。そんな中、マキャヴェッリはフランス軍との交渉役や、本国との連絡役となる傍ら、 十人委員会の名で顧問に訓令を書き、また顧問の名で十人委員会への報告書を書くなど多忙な日々を送った。ガスコーニュ兵がまず引き上げ、7月9日スイス兵も引き払い、ピサ領有は水泡と化した。後年のマキャヴェッリの「自国の軍を持つ必要性」や 他人の褌で相撲を取ることを考えてはならないという主張は、この年の経験に基づくとされる。ピサ戦役の失敗は、フィレンツェ共和国に多大な費用の空費をさせただけでなく、フランス兵の略奪によりピサ周辺の親フィレンツェ地域にまで恨みを買い、 フランス王にいいようにあしらわれたことで、国に権威の失墜を招いた。また、フランス王は一方的に同盟の破棄を宣言し、マキャヴェッリは王の後を追って、共和国政府の副使として弁明のためにフランスまで行くことになる。

このように実際に軍事行動の立案から実行まで関わり、また外国にも度々派遣されることもあった。マキャヴェッリは見聞きした各国為政者や古典から学んだ歴史上の人物の中から、 権謀術数に長けた教皇軍総司令官チェーザレ・ボルジアに理想の君主像を見出すようになった。

マキャヴェッリは自らの経験と考察から、国の根源は傭兵に拠らない軍事力にあると確信し、国民軍の創設を計画した。貴族や富裕層の中には国民軍創設に反対する者もいたが、その企画は実現する。国民軍は期待された成果を挙げることなく、ピエロ・ソデリーニ政権は1512年、メディチ家のフィレンツェ復権を後押しするハプスブルク家スペインの前に屈服し、マキャヴェッリは第二書記局長の職を解かれた。

1513年2月、ジョヴァンニ・デ・メディチ新政権下起こった(ボスコリ事件)に加わった容疑でマキャヴェッリは指名手配され、2月19日自ら出頭して逮捕された(実際には加担してなかったとされる)。マキャヴェッリは地下牢で、縄で吊るされるという拷問(拷問の中ではさほど残酷な部類には入らない)を6回受けた。3月11日にジョヴァンニ・デ・メディチが教皇に選出されたことにより、大赦により(3月11もしくは12日に)釈放された。大赦で釈放されているが、保釈金的なものは発生しており、マキャヴェッリの年収の10年分にあたるお金を友人3人に借りて支払っている。

所有地からのあがりだけで悠々自適でいられる身分になかったマキャヴェッリは、財産はフレンツェ市内の家とサンタンドレアにある山荘だけであった。当時フィレンツェ近郊の山荘では、小麦と衣服以外は自給自足できるのが一般的であり、それがあってか、マキャヴェッリは葡萄やオリーブの収穫時期ぐらいにしか行かなかった山荘に、家族7人(本人・妻・子供5人)で移り住む(大赦によりフィレンツェ市内からの1年の追放刑も赦されていたので、マキャヴェッリが追放されたという説は疑問である。また、マキャヴェッリ自身「失業して給料が入らなくなり、これでは、にわとりでも飼って口をしのぐしかない」と書いている)。山荘はフィレンツェ・シエナ間に広がるキャンティ地方にあり、ワインの産地である。現在、マキャヴェッリの子孫の娘の再婚先であったセリストーリ伯家が、山荘とそれに付随した農園を相続していて、マキャヴェッリの横顔を商標にした「キャンティ・クラシコ」を販売している。しかし、マキャヴェッリの時代は、ワイン販売が事業として成り立つとは誰も考えてなかったようで、ワインでひと稼ぎとはいかなかったようである。43歳にして隠遁生活に入らざるをえなかったマキャヴェッリは、昼間は農業に勤しんだり近くの庶民と交わり賭け事等をして時を過ごし、日が落ちると読書、執筆三昧の日々を送った。当時の生活ぶりは、1513年12月10日に、ローマ法王庁にフィレンツェ政府より大使として赴任していた、親友のフランチェスコ・ヴェットーリへの一通の手紙から窺える。イタリア文学史上、最も有名で美しい手紙の一つとされているが、夜になると官服に着替えて『君主論』と題した小論文をまとめていることを述べている。

執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、彼の喜劇は大好評を博し著作家としての名声を得た。

マキャヴェッリは、「私は我が魂よりも、我が祖国を愛する」と友人であるフランチェスコ・ヴェットーリ宛の書簡に記した[6]ように愛国者を自認しており、いつでもフィレンツェのために役立ちたいと公言していた。元来、陽気でお喋りで、飲む・打つ・買うが大好き、また良き夫、良き父親、仕事好きでめげないマキャヴェッリは、独裁的なメディチ家が君臨する新政権下への就職活動を模索するようになった。

マキャヴェッリは共和制支持派と見られていたので、かつての同僚や彼に批判的な人の中には、メディチ政権への猟官運動を冷淡に見る者もいた。新たにフィレンツェの支配者となったジョヴァンニ・デ・メディチ、またその後任者ジュリアーノ・デ・メディチの方でも、長く前政権下の政務に携わったマキャヴェッリを用いることはしなかった。

1516年に死去したジュリアーノ・デ・メディチの後任にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、マキャヴェッリに謁見の機会が与えられた。謁見の場でマキャヴェッリがロレンツォ・デ・メディチに献上したのが『君主論』である。ロレンツォ・デ・メディチに献上された本『君主論』には、君主たるものがいかにして権力を維持し政治を安定させるか、という政治手法が書き記されている。

彼の理論は「フォルトゥーナ」(Fortuna, 運命)と「ヴィルトゥ」(Virtù, 技量)という概念を用い、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時において新たな点であった。共和主義者のマキャヴェッリであったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦う「イタリア戦争」に衝撃を受けた。彼が体験した挫折感と、独立を願って止まない情熱の存在があったからこそ、『君主論』が生まれたといわれる。マキャヴェッリは君主論の中で、混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いている。理想の君主チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じた。

チェーザレ・ボルジア失脚当時には、マキャヴェッリも「かつての公爵とは千年の隔たりを感じる」と冷たい評価を下しながらも、『君主論』26章では、チェーザレについて次のような言葉を残す。「今までに、ある人物の中に、神がイタリアの贖罪をあがなうよう命じられでもしたかのような、ひとすじの光が射したことがあった。だが、残念なことにこの人物は、その活動の絶頂期に運に見放されてしまったのである」。そしてそれに続く言葉は、「こうして息絶えだえのイタリアは、今自らの傷を癒してくれる人を望んでいる」であり、とどめにメディチ家に対して「今日、ご尊家がこの贖罪行動の先頭に立つ他に、イタリアの期待に応えられる人がどこにあろうか」と激励を送った。

1520年、マキャヴェッリ理論の傾倒者が多く首謀者に含まれた反メディチの陰謀オルティ・オリチェライ事件が発生したが、ロレンツォの後任者ジュリオ・デ・メディチ(後のクレメンス7世)は、マキャヴェッリの事件への関与を一切問うことをしなかったばかりか、著作家として才能を開花させていたマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆を依頼した。

このようにメディチ家政権下で顧問的に用いられるようになったマキャヴェッリだったが、1527年に発生したローマ略奪でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャヴェッリもまた政権から追放されるはめになった。一貫した共和制支持派からは「メディチ家に擦り寄った裏切り者」、ある者からは「目的のためには手段を選ばない狡猾者」と非難され失意のうちに病を得て急死した。

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やばい!あと3時間!

健康は第一の富である。

  ラルフ・ワルド・エマーソン





身体に少しでも異常を感じた時は、


薬を早いうちに服用!


身体にまだ体力が残っているうちに・・・
薬に助けてもらわないと・・・


今回のは、ちょっとヤバイ気がする。


身体に病原菌が完全に入りこんだか・・・

身体を侵食しているのがわかる。

タダの風邪でもかかればまたお金がかかる。


どうにか・・・


朝には回復しておいて!


睡眠zzz  あと3時間・・・


かんばれ!身体!

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ラルフ・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson、1803年5月25日 - 1882年4月27日)は、アメリカ合衆国の思想家、哲学者、作家、詩人、エッセイスト。 ラルフ・ウォルド・エマーソン、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ラルフ・ワルド・エマソン、とも呼ばれる。 英語では、エマーソンのエにアクセントがあり、エマソン、またはエマスンに近くなる。

アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに生まれる。 18歳でハーバード大学を卒業し21歳までボストンで教鞭をとる。 その後ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、牧師になる。 自由信仰のため教会を追われ渡欧、ワーズワース、カーライルらと交わる。帰国後は個人主義を唱え、アメリカの文化の独自性を主張した。

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自分を信じる事!

自分の前にいっぱい敵があらわれた時、振り返って見るがいい。
味方だっていっぱいいるものだ

                     生田長江





周りを見たら敵だらけ・・・

それは、己が勝手に思っているだけの事・・・


しっかりと積み重ねたものがあれば・・・


仲間は必ずいる!


自分を信じるんだ!

やっている事は、きっと間違っていない・・・


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生田 長江(いくた ちょうこう、1882年(明治15年)4月21日 - 1936年(昭和11年)1月11日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、小説家。

父喜平治と母かつとの三男一女の末子として、鳥取県日野郡貝原村(現・日野町根雨)に生まれた。1895年(明治28年)(13歳)、地元の日野郡高等小学校を卒業し、翌年、次兄がいる大阪へ出て、1897年、桃山学院の2年生になった。

本名は弘法大師に因んだ『弘治』なのに、1898年、プロテスタント系のユニバーサリスト教会で受洗し、聖書に親しんだ。翌年上京して青山学院中学部の4年生となり、1900年、第一高等学校文科に入り、1903年、東京帝国大学文科大学哲学科へ進み、美学を専攻した。

一高時代から雑誌へ投稿し始め、大学時代には上田敏・馬場孤蝶の『藝苑』誌の同人となり、上田から『長江』の号を貰った。

1906年(明治39年)(24歳)、東大を卒業し、1907年、鳥取県の亀田藤尾と結婚して与謝野鉄幹・晶子夫妻の隣に暮らし、麹町区飯田町にあった成美英語女学校の英語教師を、1909年の閉鎖まで勤めた。

この頃の数年間、女性の文学の振興に努めた。1907年夏、一高以来の森田草平と、成美英語女学校の経営主、九段中坂下(現・千代田区九段)のユニヴァーサリスト教会で、女性のための文学講習会『閨秀文学会』を開いた。馬場孤蝶、与謝野晶子、赤司繁太郎らが講義し、大貫かの子、青山菊栄、平塚らいてうらが聴講したが、年内に閉講した。

1909年から、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を翻訳し、1911年年初に刊行した。その9月に創刊した平塚らいてうらの『青鞜』誌を、1913年まで後押しした。生田春月、佐藤春夫を門弟とした。

1914年(大正3年)(32歳)、初めは森田草平と共同編集で、『反響』誌を創刊した。翌年の同誌の廃刊後、ニーチェ全集の翻訳を志し、1916年から1929年までに、全10巻を出版した(訳書の項参照)。

また、1914年頃から堺利彦や大杉栄と交わり、批評の目を社会問題へも広げた。1916年、『自然主義前派の跳梁』などで、『白樺派』を論難した。1919年、資本論第一分冊を翻訳出版するなど、社会主義に近付いて、1923年頃から離れた。1919年に島田清次郎の『地上』を、1921年に、高群逸枝の『日月の上に』を評価したが、師弟関係は結ばなかった。

1922年(大正11年)(40歳)、『釈尊傳』創作の準備を始めた。1925年から1930年まで、鎌倉の由比ヶ浜に住んだ。ハンセン病が、容貌が崩れるまでに進んでいた[1]。

1929年(昭和4年)(49歳)、ニーチェ全集を完結し『釈尊傳』の執筆を始め、1934年の失明にひるまず、1935年、『釈尊上巻』を刊行した。また、『新訳決定普及版 ニイチェ全集 全12巻』を1936年にかけて出版した。

1936年(昭和11年)新春、渋谷区の自宅で亡くなった。聖伝院長江棹舟居士。喜福寺(現・東京都文京区本郷5丁目)で葬儀を行い、鎌倉長谷寺の高台の墓域に、1917年に亡くなった藤尾夫人の遺骨と共に埋葬した。

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今をしっかり生きる事で未来は大きく変わる!

現在というものは、過去のすべての生きた集大成である。

                      トーマス・カーライル





なんだかんだ言っても


今の自分を創ったのは、自分


過去の集大成が現在・・・


しょうがない。


しかし今から過去を作ればいい!


いい現在になる為に・・・





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トーマス・カーライル(Thomas Carlyle, 1795年12月4日 - 1881年2月5日)は、19世紀イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家で、スコットランド出身。

スコットランドのダンフリーズ・アンド・ガロウェイ(Ecclefechan)出身。大英帝国(ヴィクトリア朝)時代を代表する言論人だった。

代表作に、『英雄崇拝論』、『フランス革命史』、『オリバー・クロムウェル』、『衣装哲学』、『過去と現在』などがある。ドイツ文学を研究したことでも著名で、ゲーテとの往復書簡がある。〈全集 The works of Thomas Carlyle〉は30巻に達している。

1865年、エディンバラ大学の学長に任命された(1865年-1868年)。

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結婚!!!

結婚するのも幸せだし、結婚しないのも幸せだ。
どっちにも人間としての喜びがある。

                   
               武者小路実篤




そろそろ結婚しないとな~って・・・


もう7~8年は言っています。

結婚なんてタイミング!


今と思ったら今なわけで・・・


歳を取るばかり、結婚願望が無い訳ではないが・・・


なぜかしない。


今年こそは・・・(多分しない)

来年こそは・・・(多分する)


これくらいかな・・・


まだまだ借金もいっぱいあるし・・・




もうちょっと落ち着いたら、でいいかな。





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武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ、1885年(明治18年)5月12日 - 1976年(昭和51年)4月9日)は、日本の小説家・詩人・劇作家・画家。

姓の武者小路は「むしゃのこうじ」と読むが、実篤自身は「むしゃこうじ」と名乗っていた。一般には「むしゃのこうじ」で普及しており、本人も誤りだと糺すことはなかったという。

仲間からは「武者」(ムシャ)の愛称で呼ばれた。位階は従三位。文化勲章受章。授与された称号には名誉都民などがある。日本芸術院会員。

東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)に、藤原北家の支流・閑院流の末裔で江戸時代以来の公卿の家系である武者小路家に武者小路実世子爵の第8子として生まれた。2歳の時に父が死去。子供時代は作文が苦手だった。

学習院初等科、同中等学科、同高等学科を経て、1906年(明治39年)に東京帝国大学哲学科社会学専修に入学。1907年(明治40年)、学習院の時代から同級生だった志賀直哉や木下利玄らと「一四日会」を組織する。同年、東大を中退。1908年(明治41年)、回覧雑誌『望野』を創刊。1910年(明治43年)には志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこれに因んで白樺派と呼ばれた。実篤はトルストイに傾倒したが、その彼はまた白樺派の思想的な支柱だった。

理想的な調和社会、階級闘争の無い世界という理想郷の実現を目指して、1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城村に「新しき村」を建設した。しかし同村はダム建設により大半が水没することになったため、1939年(昭和14年)には埼玉県入間郡毛呂山町に新たに「新しき村」を建設した。但し実篤は1924年(大正13年)に離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となったため、実際に村民だったのはわずか6年である。

この両村は今日でも現存する[1]。同村のウェブサイトでは、実篤が村外会員になって文筆活動に専念した事を好意的に受け止めている。実際に実篤が村民だったころの活動は離村後の彼の執筆に多大な影響を及ぼしたといわれており、また同村にとっても実篤が事実上その象徴的役割を果たしたことは否めず、両者は今日に至るまで言わば持ちつ持たれつの関係にあると見ることもできる。

1946年(昭和21年)には貴族院議員に勅選されるが、4ヶ月後には公職追放の憂き目に遭っている。1948年(昭和23年)には主幹として『心』を創刊し死去する直前まで関った。1951年(昭和26年)には文化勲章を受章している。晩年には盛んに野菜の絵に「仲良きことは美しき哉」「君は君 我は我なり されど仲良き」などの文を添えた色紙を揮毫したことでも有名だった。

1976年(昭和51年)4月9日、東京都狛江市にある慈恵医科大学付属病院で尿毒症により死去。満90歳だった。

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お金を作る三原則!

金を作るにも三角術を使はなくちゃいけないと言ふのさ…
義理をかく、人情をかく、恥をかく、これが三角になる。

                      夏目漱石



お金を作るのは、本当に大変だ・・・


お金って何で増えないんだろう?

お金は、寂しがりやだから
ある所にしか寄っていかない!なんて言う人もいれば、


お金は道具!自分の懐ばかりに入れていても貯まらない!
人を動かす為に使い、そこからまたお金がうまれる、なんて言う人もいる。


お金を掴むには、必要なのは、お金?


お金が無ければ何も出来ない?


貧乏人はだからいつまで貧乏人?


ここから抜け出すのは、至難の業なのか・・・・
もちろんお金が全てではないが・・


そんなきれいごとでは、生きていけない!






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夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。

大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学教師、熊本で五高教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝大講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。

その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。

1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と、初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。

同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。

1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした事も影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ[7]、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺を一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1ヶ月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月大学を中退する。

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自分は本当に愚かな人間だな。

怒を敵と思へ。

        
          徳川 家康





とっさに取る行動が、後で苦虫を噛んだ様な思いになる。


冷静でいる時には、わかる。

客観的に見ている時にも、わかる。


しかし、自分がプレーヤーになった時には、なぜかそうはいかない・・・


もっと自分自身の鍛錬をしないと・・・

感情をむき出しにして、生活する年でもないし・・


あ~愚かだ。




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徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。

本姓は、先に藤原氏、次いで源氏を称した。家系は、三河国の国人土豪・松平氏。1567年2月18日(永禄9年12月29日)に勅許を得て、徳川氏に改姓。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。

徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉に臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く平和な江戸時代を画した。

家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の1542年(天文11年)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代。

当時の松平氏は、弱小な一地方豪族(国人)であった。広忠は、臣従していた有力な守護大名・今川氏に忠誠を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、家臣の裏切りにより、今川氏と対立する戦国大名・織田氏へ送られ、その人質となってしまう。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏の元で人質として忍従の日々を過ごした。この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康と名を改めた。

1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川と決別し、信長と同盟を組んだ(清洲同盟)。この後、元康は家康に名を改め、信長の盟友(事実上は客将)として、三河国・遠江国に版図を広げていくこととなる。永禄9年(1567年)には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった。1582年(天正10年)、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、神流川の戦いにより空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって関東の北条氏、越後の上杉氏と争い、この二ヶ国を手中にしてさらに勢力を広げた。

1584年(天正12年)、信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉との対立が深まり、小牧・長久手の戦いで対峙した。この戦いで家康は兵力差で圧倒的に不利であったものの戦略的勝利を収めた。その後豊臣家の威光が増すと、豊臣氏に臣従する結果となった。1590年(天正18年)、小田原征伐において関東を支配していた北条氏が滅亡した後、秀吉から関東への領地替えを命じられた(関東移封)。長年の根拠地を失ったものの、豊臣政権の下で最大の領地を得ることとなり、五大老の筆頭となった。

秀吉没後の1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにおいて勝利し、その覇権を決定づけた。1603年(慶長8年)には、後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開き、その支配の正当性を確立させた。1605年(慶長10年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。1614年(慶長19年)から1615年(慶長20年)にかけて行った大坂の役(大坂冬の陣、大坂夏の陣)においても、終始指揮を主導して豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした(元和偃武)。

1616年(元和2年)、駿府城にて死去。享年75。その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)。家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、現在でも信仰の対象となっている。

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幸せを感じる時は・・・幸せではない

幸福とは幸福を問題にしない時をいう。

                芥川龍之介




借金をしている人は、きっと感じるだろう。


あ~この借金が無ければ・・・


しかし何も借金をしていない人にはわからない幸福
普通でいられる事は、本当に幸せなんだ・・・


特に僕の様に給料のほとんどを返済に充てている人間には、
返済のない生活・・・

普通の生活こそが・・・幸せなのかもしれない


好きなものを買って、好きなものを食べる・・・


こんな事さえ出来ない生活・・・


あと数年・・・これが続くのか・・・って思うと、


本当に嫌になる。




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芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年(明治25年)3月1日 - 1927年(昭和2年)7月24日)は、日本の小説家。号は澄江堂主人、俳号は我鬼。

その作品の多くは短編である。また、「芋粥」「藪の中」「地獄変」「歯車」など、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』といった古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」といった児童向けの作品も書いている。

東京市京橋区入船町8丁目(現中央区明石町)に牛乳屋を営む新原敏三、フクの長男として生まれる。姉が2人いたが、長姉は、龍之介が生まれる1年前に6歳で病死している。

生後7ヵ月後頃に母が精神に異常をきたしたため[1]、東京市本所区小泉町(現在の墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母フキに養育される。11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父芥川道章(フクの実兄)の養子となり芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家である。家中が芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が残っていた。

なお、龍之介の名前は、彼が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来すると言われているが、誕生日の1892年(明治25年)3月1日は干支暦では壬辰年壬寅月壬辰日に当たる。出生時刻については資料がないため不明。戸籍上の正しい名前は「龍之介」であるが、養家芥川家や府立三中、一高、東京大学関係の名簿類では「龍之助」になっている。彼自身は「龍之助」表記を嫌った。

1898年(明治31年)、江東尋常小学校入学。府立第三中学校を卒業の際「多年成績優等者」の賞状を受け、第一高等学校第一部乙類に入学。1910年(明治43年)に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、龍之介はその選に入る。同期入学に久米正雄、松岡讓、佐野文夫、菊池寛、井川恭(後の恒藤恭)、土屋文明らがいた。2年生になり一高の全寮主義のため寄宿寮に入るが、龍之介は順応することはなかったらしい。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。
1919年(大正8年)の集合写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は菊池寛。

東京帝大在学中の1914年(大正3年)2月に一高同期の菊池寛・久米正雄らと共に同人誌『新思潮』(第3次)を刊行。まず「柳川隆之助」(隆之介と書かれている当時の書籍も存在する)の筆名でアナトール・フランスの「バルタザアル」、イエーツの「春の心臓」の和訳を寄稿した後、10月に『新思潮』が廃刊に至るまでに同誌上に処女小説「老年」を発表。作家活動の始まりとなった。1915年(大正4年)10月、代表作の1つとなる「羅生門」を「芥川龍之介」名で『帝国文学』に発表、級友鈴木三重吉の紹介で夏目漱石門下に入る。1916年(大正5年)には第4次『新思潮』(メンバーは第3次とほぼ同じ)を発刊したが、その創刊号に掲載した「鼻」が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業。卒論は「ウィリアム・モリス研究」。同年12月、海軍機関学校英語教官を長く勤めた浅野和三郎が新宗教「大本(当時は皇道大本)」に入信するため辞職する[2]。そこで畔柳芥舟や市河三喜ら英文学者が浅野の後任に芥川を推薦(内田百間によれば夏目漱石の口添えがあったとも)、芥川は海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を執った[3][4]。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集『羅生門』を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集『煙草と悪魔』を発刊している。

1916年(大正7年)の秋、懇意にしていた小島政二郎(『三田文学』同人)の斡旋で慶應義塾大学文学部への就職の話があり、履歴書まで出したが、実現をみなかった[5]。1917年(大正8年)3月、海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)、創作に専念する。ちなみに師の漱石も1907年(明治40年)、同じように朝日新聞社に入社している。

1919年(大正8年)3月12日、友人の山本喜誉司の姉の娘、塚本文(父塚本善五郎は戦艦「初瀬」沈没時に戦死[6])と結婚。1921年(大正10年)2月、横須賀海海軍大学校を退職し、菊池寛とともに大阪毎日の客外社員となり、鎌倉から東京府北豊島郡滝野川町に戻る。同年5月には菊池と共に長崎旅行を行い、友人の日本画家近藤浩一路から永見徳太郎を紹介されている。

1921年には海外視察員として中国を訪れ、北京を訪れた折には胡適に会っている。胡適と検閲の問題などについて語り合いなどを行い、7月帰国。「上海遊記」以下の紀行文を著した。

この旅行後から次第に心身衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを病む。1923年(大正12年)には湯河原町へ湯治に赴いている。作品数は減ってゆくが、この頃からいわゆる「保吉もの」など私小説的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の「歯車」「河童」などへと繋がっていく。

1920年(大正9年)3月30日、長男芥川比呂志、誕生。

1922年(大正11年)11月8日、次男芥川多加志、誕生。

1925年(大正14年)7月12日、三男芥川也寸志、誕生。

1925年(大正14年)頃から文化学院文学部講師に就任。1926年(大正15年)、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養。一方、妻・文は自身の弟・塚本八洲、療養のため鵠沼の実家別荘に移住。2月22日、龍之介も鵠沼の旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せる。7月20日には東屋の貸別荘「イ-4号」を借り、妻・文、三男・也寸志と住む。夏休みに入り、比呂志、多加志も来る。7月下旬、親友の画家小穴隆一も隣接する「イ-2号」を借りて住む。この間、小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』、さらに『點鬼簿』を脱稿、堀辰雄、宇野浩二、小沢碧童らの訪問を受ける。また、鵠沼の開業医、富士山(ふじ たかし)に通院する。9月20日、龍之介、文、也寸志は「イ-4号」の西側にあった「柴さんの二階家」を年末まで借りて移る。ここで鵠沼を舞台にした小品『悠々荘』を脱稿。これは、震災前岸田劉生が住み、震災後建て直されて国木田虎雄(国木田独歩の息子で詩人)が借りていた貸別荘を視察したときの経験がヒントのようで、龍之介一家が鵠沼に永住する意図があったとも考えられる。また、この間、斎藤茂吉・土屋文明・恒藤恭・川端康成・菊池寛らの訪問を受けている。元号が昭和に替わってから、妻子は田端に戻り、龍之介は「イ-4号」に戻った。甥の葛巻義敏と鎌倉で年越しをしてから田端に戻るが、鵠沼の家は4月まで借りており、時折訪れている。

1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「文芸的な、余りに文芸的な」で谷崎潤一郎と「物語の面白さ」を主張する谷崎に対して、「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。この頃、芥川の秘書を勤めていた平松麻素子(父は平松福三郎・大本信者)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こしている[7]。

7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺した。服用した薬には異説があり、例えば、山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している[8]。同日朝、文夫人が「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もある[要出典]。戒名は懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。


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仲間とは?

黄金は熱い炉の中で試され、友情は逆境の中で試される。

                    メナンドロス



必要な時にいてくる・・・

随分勝手のいい者だが、

ここぞ!と言う時に、仲間かどうか試される。


その時に力になる者を仲間と言っている・・・

本当に人間は勝手な者だ・・・


しかし現実的にそれしかない?

自分に都合のいい人がお友達?


悲しい現実だな・・・



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Menandros, 古代ギリシャ(ヘレニズム期)の喜劇作家。



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グリコのおまけ?

決断は七分の理、三分の運。

          松尾金蔵





決断を迫られる事は生きていけば、時々あるが・・・


時間をかけて決断できる事の方が少ない。


決断した後に後悔をしない様に、準備をする事!
後はその決断が正しいと信じ行動する。


後は、運に任せるしかない・・・


それまで、やった結果が運を引き寄せ


そして成功へと導く


どのパターンの決断が来るかはわからないが、
どのパターンが来たときにも対応できるように、普段からしっかり考え行動していく!


最近では、決断の時が楽しみでしょうがない!

決断する時と言うのは、

必ずチャンスのおまけがついてくる。

そのおまけが何か・・・


楽しみでしょうがない。





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松尾 金蔵(まつお きんぞう、1912年1月1日 - 2002年3月19日)は、日本の官僚。通商産業事務次官。日本鋼管会長。

福岡市薬院に生まれる。福岡県中学修猷館、旧制福岡高等学校を経て、1934年、東京帝国大学法学部を卒業し、商工省に入省する。入省同期は、松尾泰一郎(丸紅社長(1975年 - 1981年)、通商局長(1956年9月 - 1960年7月))、葦沢大義(重工業局長)、森誓夫(石油資源開発社長、重工業局長)、高坂正雄(公取委員、日銀政策委員)、吉岡千代三(軽工業局長、一高・東北法卒)、岩武照彦(中小企業庁長官)、川上為治(参議院議員、中小企業庁長官)などであった。

太平洋戦争中、商工省が軍需省に変わると、その産業機械課長などを務め、戦後になると、戦後計画経済立案の中枢となった経済安定本部企画部の企画課長、続いて通商産業省に移り、貿易局次長となり、1951年、中小企業庁振興部長、1952年、参議院法制局第三部長、1953年、経済審議庁調整部長、1955年9月、鉱山局長、1956年6月、通商産業省官房長、1957年6月、企業局長を経て、1961年7月、通商産業事務次官に就任する。

企業局長時代には、大来佐武郎(当時経済企画庁計画局長)、有沢広巳(当時法政大学総長)、稲葉秀三(財団法人国民経済研究協会理事長)、脇村義太郎(東京大学経済学部教授)らと共に、政策団体「総合政策研究会」のメンバーの一人として、政府や経済界に政策提言を行っており、所得倍増計画や太平洋ベルト構想などの計画立案に関わっている。

松尾の後任の通産事務次官は、当初本命であった佐橋滋企業局長(次官待ちポスト)が、突如特許庁長官に転任し、佐橋の同期の今井善衛特許庁長官が就任した。翌年、今井次官は勇退し、佐橋特許庁長官がその後任となった。この経緯をもとに城山三郎は小説『官僚たちの夏』を描いており、松尾は「丸尾」として登場する。

1963年7月、通産省を退官し、1964年11月、日本鋼管に入社して常務となる。その企画力を買われ、1967年5月、筆頭専務となり、1971年5月、副社長を経て、1976年6月、会長に就任する。その後、1980年6月、取締役相談役、1982年6月、相談役となる。傍ら、1978年3月、芙蓉石油開発(株)会長、同年6月、海外石油開発(株)取締役、1985年9月、サハリン石油開発協力(株)会長を歴任する。

1982年4月、勲二等旭日重光章を受章する。

2002年心不全により死去。葬儀は松尾家と日本鋼管との合同葬として青山葬儀所で営まれた。葬儀委員長は半明正之日本鋼管社長。

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まだ間に合う!

頑張れば手の届きそうな目標だと、それを達成した瞬間に満足して、成長が止まってしまう。自分を進化させ続けるためにも、目標は高いに超したことはない。

                                北島康介




飽き性の僕は、いつも目標達成で飽きてしまう!


30歳辺りを過ぎて解った!


目標が低すぎる、そして目標が曖昧すぎる。


北島康介気が付くのが早い!
僕が30年掛かった事を・・・


ま!人は人・・・いくつになっても気が付かない人は気がつかないから・・・

気が付いただけましか・・・


これから~♪これから~♪







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北島 康介(きたじま こうすけ、1982年9月22日 - )は、日本のプロ競泳選手。アテネオリンピック並びに北京オリンピック100m平泳ぎ、200m平泳ぎの金メダリスト。

日本コカ・コーラ所属。身長178cm、体重72kg。血液型B型。

東京都荒川区出身で、実家は西日暮里にある精肉店「肉のきたじま」(株式会社北島商店)を経営。文京区の区立千駄木小学校、文林中学校、本郷高校、日本体育大学体育学部体育学科卒業。大学卒業後、日体大大学院に進んだが、選手活動に専念するため2006年に中退。

5歳から東京SCで水泳を始め、中学2年生の時に、東京SCのコーチ平井伯昌に才能を見出される。高校3年生で2000年シドニーオリンピックに出場し、100m平泳ぎ4位入賞。2004年アテネオリンピックと2008年北京オリンピックにおいて100m・200m平泳ぎで金メダルを獲得し、オリンピック史上初の平泳ぎ2大会連続2種目制覇を果たす(オリンピック2大会連続2種目制覇は日本人史上初である)。また、個人メドレーで日本記録を保持していたこともある。

2005年度から日本オリンピック委員会が始めた選手強化キャンペーンのシンボルアスリート制度を用いず、2005年4月から日本コカ・コーラと所属契約を結ぶことになり、スイミングキャップやレーシングゴーグル、水着にCoca-Colaのロゴを入れて大会に出場する。競技生活を仕事とするプロ選手である。北京オリンピックまでは東京SCを拠点にトレーニングしていたが、休養から明けてトレーニングを再開した(2009年9月)以降は南カリフォルニア大学を拠点としている。

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これでいいのだ~♪これでいいのだ~♪

仕事が楽しみなら人生は極楽だ。苦しみなら地獄だ。

              マクシム・ゴーリキー 
   



仕事を楽しんでいるのか?

それとも・・・


今の現状は正直わからない。

しかし確実に言える事は、自分の為だけにやっている!


これで、いいのか?


これでいいのだ!(笑)



自分のスキルを磨き将来に繋げる。



これでいいのだ!







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ニジニ・ノヴゴロドに家具職人の子として生まれる。母ワルワラを肺結核で亡くして10歳で孤児となった後、話が上手であった祖母に育てられる。祖母の死は彼を深く動揺させた。1887年の自殺未遂事件の後、ロシアの各地を職を転々としながら放浪する。

その後、地方新聞の記者となる。1892年にトビリシで、『カフカス』紙に最初の短編『マカル・チュドラ』が掲載され、はじめて筆名としてゴーリキーを名乗った。1895年、『チェルカシュ』を大衆雑誌『ロシアの富』に発表。1898年にはペテルブルクで短編集『記録と物語』を刊行し、一躍人気作家になった。1899年、散文詩『26と1』、最初の長編物語『フォマ・ゴルデーエフ』を発表。その名声はたちまちアントン・チェーホフやレフ・トルストイと比されるまでになった。1902年、代表作である『どん底』を発表し、同年モスクワでコンスタンチン・スタニスラフスキーの演出で上演され、翌1903年、ベルリンでも上演された。

1902年には科学アカデミーの名誉会員に選ばれるが、その急進的な政治的信条を理由にニコライ2世によって取り消された。この事件に対する抗議としてアントン・チェーホフとウラジミール・コロレンコがアカデミーを辞任している。1905年、ボリシェヴィキ組織に入り、レーニンの知己を得る。1905年から1907年までの革命には、ゴーリキーが巨額の援助をしたとされる。

第一次世界大戦の際には、ペトログラードのゴーリキーのアパートはボリシェヴィキの事務室になった。しかし、その後、共産主義に対するゴーリキーの考えは一変し、十月革命の2週間後の手紙にはこう書いている。「レーニンもトロツキーも自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」。1919年、レーニンはゴーリキーに宛てて書いた手紙に「君に忠告する。環境とものの見方、行動を変えるべきだ。さもなくば人生は君から遠ざかってしまうだろう」と書いている。1921年、結核の療養のためイタリアのソレントに移り住んだ。

アレクサンドル・ソルジェニーツィンによれば、ゴーリキーのロシアへの帰還は、イタリアでの暮らしに困ってのことだった。ソレントで、ゴーリキーは貧しくみじめな暮らしを余儀なくされた。1928年以降、何度かソビエト連邦を訪れるようになり、1932年にはスターリンの個人的な求めに応じてロシアに帰った。

ファシスト政権のイタリアからゴーリキーが戻ったのは、ソビエト政府にとっては格好の宣伝材料となった。彼はレーニン勲章を受け、モスクワの邸宅(現在はゴーリキー博物館となっている)と郊外の別荘を贈られる。このとき、モスクワのトヴェルスカヤ通りがゴーリキー通りと改められ、生地のニージニー・ノヴゴロド市もゴーリキー市と改称された(1990年まで)。ゴーリキーはソビエト作家同盟を設立し、その議長に就任する。

1934年、セルゲイ・キーロフが死に、スターリンによる粛清が始まると、ゴーリキーは自宅に軟禁されるようになった。1935年、息子マクシム・ペシコフを亡くした翌年、1936年にモスクワで没する。両者とも毒殺された疑いがあるが、確実なことは分かっていない。

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世界最強の武器!

金を稼がんとせば、金を使わねばならぬ。

            プラウトゥス




お金は、使わないと入らない・・・


じっと溜め込んでいても、ただの紙切れ!
お金を道具として使いお金を集める。


お金が欲しければ、お金を使わないとお金は集まらない。
むやみやたらに、使えばいいものではないが・・・・

使い方次第では、無敵の武器になる!


よく考え、綺麗に使おう!



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ティトゥス・マッキウス・プラウトゥス(ラテン語: Titus Maccius Plautus, 紀元前254年 – 紀元前184年)は、古代ローマの劇作家。

彼の喜劇は最初期のラテン文学に影響を残している。彼はまた最初期の演劇家でもある。エンターテイメントに飢えた観衆の必要を満たすため、駄洒落、名前に登場人物の性格をありありと反映させるなどの言葉遊びを多用した。主に言語の面白さによって観衆をひきつける必要から、物語全体の説得力は他の作家に道を譲るといわれる。




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信じるものだけに与えられる力!

できると思えばできる。できないと思えばそこで終わる。


              化粧品会社創設者
                  メアリー・ケイ・アッシュ





出来ると強く信じれば・・・


必ず身体は、反応してくれる!


人間の脳みそは、ほとんどの機能が解明されていない。
きっとその解明されていない所に、




無限のパワーを秘めている気がする。




超能力とまでは、行かないが、
人間の未知なるパワーを発揮するには・・・
精神なのかもしれない。







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Mary Kay Ash, born Mary Kathlyn Wagner in Hot Wells, Harris County, Texas, was the daughter of Edward Alexander and Lula Vember Hastings Wagner.[1] She attended Reagan High School in Houston, and graduated in 1934.[2]

Ash married Ben Rogers at age 17. They had three children. While her husband served in World War II, she sold books door-to-door. After her husband's return in 1945, they divorced. Ash went to work for Stanley Home Products.[3] Frustrated when passed over for a promotion in favor of a man that she had trained, Ash retired in 1963 and intended to write a book to assist women in business. The book turned into a business plan for her ideal company, and in the summer of 1963, Mary Kay Ash and her new husband, George Arthur Hallenbeck,[1] began Mary Kay Cosmetics with a $5,000 investment. Before the company could open its original storefront operation in Dallas, her second husband died, and her son, Richard Rogers, took his place.[1] The store opened in 1963, but grew rapidly, particularly after Ash was interviewed for CBS's 60 Minutes in 1979.

Ash was widely respected. She considered the Golden Rule the founding principle of Mary Kay Cosmetics and the company's marketing plan was designed to allow women to advance by helping others to succeed. She advocated "praising people to success" and her slogan "God first, family second, career third" expressed her insistence that the women in her company keep their lives in balance.

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半か!丁か!

博打をしないような男はろくなものじゃない。

                   山本五十六





勝負の時は・・・


いつも突然来るもの、


その勝負の時にいかに迅速に対応出来るか、
そしていかに良い結果を生み出す事が出来るか。


それがたとえ、博打になろうとも


男なら勝負をしないといけない!


逃げるな!勝負の時は、刻一刻と迫っている。


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山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 1943年4月18日)は、新潟県出身の大日本帝国海軍の軍人。第26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。

ソロモン戦線で米軍の攻撃によって戦死するまで、太平洋戦争(大東亜戦争)前半の日本海軍の攻勢作戦、中でも真珠湾攻撃とミッドウェー海戦での総指揮に当たったことから、海外でも太平洋戦争の日本を代表する提督として広く知られる。

1936年(昭和11年)11月25日、日独防共協定が締結、翌月12月1日に海軍次官に就任[80]。次官就任は永野修身海軍大臣の熱望によるもので、山本は永野を評価しておらず、あくまで航空本部長職を望んでいた[81]。山本と永野の仲がしっくりいかない事は、新聞記者達の間では周知の事実だったという[82]。2ヶ月後広田弘毅総理大臣が辞職して廣田内閣は崩壊、林銑十郎総理による林内閣が成立し、山本は米内光政海軍大臣のもとで林内閣・第1次近衛内閣、平沼内閣と留任する[83]。米内の海軍大臣就任は永野の最大の功績の一つとされ、艦隊派としてワシントン海軍軍縮条約に反対・統帥権でも問題を起こしていた末次信正軍事参議官の大臣就任阻止と加藤寛治海軍大将の影響力を抑えるという一面もあった[84]。

この間、盧溝橋事件が発生して支那事変(日中戦争)に拡大[85]、第二次上海事変が起きると海軍航空隊も本格的に投入され、戦果をあげると同時に損害も出した[86]。山本は外交問題の処理に携わり、1937年(昭和12年)8月にナッチボルー・ヒューゲッセン駐華大使が日本軍機の誤爆で負傷した事件、12月に海軍航空隊が米砲艦を誤爆したパナイ号事件の解決に奔走する[87]。山本はジョセフ・グルー駐日大使に謝罪、同時に綿密な検証によって米国の誤解を解き、事件の余波を最小限に抑えている[88]。だが1938年(昭和13年)11月25日、米内海軍大臣は南シナ海の海南島を占領する計画を五相会議で提案、閣議了承される。海軍軍令部(古賀峯一次長、宇垣纏第一部長、草鹿龍之介第一部第一(作戦)課長)も賛同し、1939年(昭和14年)2月に海南島を軍事占領した。山本は米英の反発を招く事を懸念して反対したが、伏見宮軍令部総長の賛成により制止できなかったとされる[89]。草鹿によれば日本の南方進出を見込んだ布石であったが、東南アジアに多数の植民地を持つ欧米列強との関係は一挙に悪化することになった[90]。3月、米国で客死した斎藤博駐米大使の遺骨が米巡洋艦「アストリア」 (USS Astoria, CA-34) で礼送され、横浜港にて山本が受け取ったという[91]。4月、航空本部長を兼務した。

山本は日独伊三国軍事同盟の締結に対し、米内海軍大臣、海軍省軍務局の井上成美らとともに最後まで反対した人物である[92]。この事から海軍条約派三羽鴉(海軍左派)とも言われているが[93]、日本陸軍や外務省の提案に対して海軍の方針を示していただけで、対案を出すなど積極的姿勢を見せることはなかったという指摘もある[94]。山本達の反対理由は主に「米英との関係が悪化して支那事変解決が難しくなる」「日ソ開戦の場合ドイツは距離が遠すぎて援助・支援が期待できない」「条約で日本が損をする項目があるのではないか」「軍事同盟締結によりドイツ・イタリアに中国大陸の権益を要求される懸念がある」であった[95]。

一方、三国同盟賛成派は山本のイメージを悪化させるプロパガンダを展開し、また暗殺の風評を流した[96]。山本は表面的には鷹揚に行動したが[97]、ひそかに遺書も書いている[98]。私服の憲兵が護衛についた他、自宅に機関銃が備えられたこともあった[99]。山本は、三国同盟賛成と反英国・米国世論の盛り上がりは日本陸軍と内務省の合議による組織的なものと報告した[100]。政治も世論も同盟締結に傾き、山本達は孤立していく。ところがノモンハン事件が起きて日本とソ連が軍事衝突を起こす中、8月23日、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を締結[101]。平沼内閣は『欧州情勢は複雑怪奇なり』の言葉を残して総辞職、日独伊三国同盟第一次交渉は頓挫した[102]。山本達は「(同盟締結の)芽だけを摘んで根元を刈り取らなかった」という指摘もある[103]。

1939年(昭和14年)8月20日、 阿部内閣の発足時に、山本(中将/海軍次官)は連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する[104]。米内海軍大臣の後任には吉田善吾(前連合艦隊司令長官)が内定[105]。山本は引き続き次官として吉田を補佐することを米内に望んだが、米内は山本が暗殺されることを恐れ、安全な場所(連合艦隊司令長官。軍艦長門の中)へ避難させる人事を行った[106]。「結果からみれば、情に流れた甘い人事は、米内の失点であった」という意見もある[107]。山本の後任住山徳太郎海軍次官と井上の後任阿部勝雄軍務局長は平凡な人物で、住山の後任豊田貞次郎海軍次官は次官在任後7ヶ月で商工大臣に転じ古賀峯一(第二艦隊長官)に「海軍を踏み台にして出世した」と嘆かれるなど、米内海相時代に比べ明らかに政治力が低下していた[108]。温厚だけが取り柄で吉田海相を補佐できない住山に対し、山本は「海軍がだれが大臣、次官になろうと、根本政策、方針に変わりなく微動だにしない。住山が来たって同じで、その見本を示すためだ」と周囲に語っていたが、完全な見込み違いであった[109]。石原莞爾は日中戦争の終結について山本海軍次官と協議すべく上京したが、数日の差で山本は連合艦隊司令長官に転出していたという[110]。

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笑えばいいと思うよ・・・

あなたが自信に満ち、明るく、積極的な人であれば、
あなたの同僚、友達や家族は、あなたのパースナリティに魅力を感じるはずです。

楽しくない時があっても、
努めて明るく積極的に振舞うよう心がければ本当に気分が明るくなっていきます。


                               ナポレオン・ヒル




笑う門には福来る!



日本人も、欧米人もみんな同じ。
ポジティブこそ自分を救う唯一の道


苦しい時にも笑って過ごし
悲しい時にも笑って過ごし


楽しい時は、もっともっと笑って過ごす!


気持ちが落ち込めば運気も落ち込む・・・


人生を楽しめ!






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ナポレオン・ヒル(Napoleon Hill,1883年10月26日 - 1970年11月8日)は、アメリカ合衆国の著作家。成功哲学の祖とも言われ、『頭を使って豊かになれ(思考は現実化する)』(Think and Grow Rich)の著者として世界的に有名である。

バージニア州南西部のワイズ郡で生まれる。9歳の時に母が死去。

1908年、新聞記者として世界の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーにインタビューをした事をきっかけに、「20年間無償で500名以上の成功者の研究をして、成功哲学を体系化してくれないか」と頼まれる。 彼は「やらせてください」と即答、それから20年間苦悩の末、約束通り1928年に『頭を使って豊かになれ(思考は現実化する)』(Think and Grow Rich)を執筆する。

ウッドロウ・ウィルソン大統領の補佐官、フランクリン・ルーズベルト大統領の顧問官を務めた。1970年に87歳で死去。

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一日一目標!

いま自分にできること。がんばればできそんなこと。そういうことを
積み重ねていかないと、遠くの大きな目標は近づいてこない。

                     鈴木 一郎





大きな目標は、小さな目標の積み重ね・・・



小さな目標を諦めていると、
大きな目標は、達成出来ない!


一日一日を大事に生きなければ・・・


毎日単調に仕事をこなし
小さな目標を見失い・・・


結果的に、時間を浪費してしまう。


どんなに些細な目標でもいいから、一日一つでもいいから、


必ず目標を定め、達成しよう!


そうすれば必ず結果がついてくる!




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イチロー(本名:鈴木 一朗〈すずき いちろう〉、1973年10月22日 - )は、シアトル・マリナーズに所属するプロ野球選手(外野手)である。

NPB・MLBの双方で活躍し、MLBのシーズン最多安打記録など多数の記録を保持している。

夫人は元TBSアナウンサーの福島弓子。

日本での愛称は「イチ」。アメリカ合衆国での愛称は「魔法使い(Wizard)」「安打製造機 (Hit Machine/Hitting Machine)

小学校時代は地元の少年野球チーム・豊山町スポーツ少年団に所属。エースで4番として活躍し、6年生の時に全国大会に出場。小学3年生の頃から学校から帰ると、父親と近くの公園で野球の練習に明け暮れた。やがて学年が上がるにつれて、それだけでは満足できなくなり、町内にある空港バッティングセンターにほぼ毎日通い詰めていた。バッティングセンターに通いつめるあまり、普通の球速では満足できなくなり、イチロー用のスプリングを作って、行く前に電話したという[要出典]。同センターにはイチロー専用8番打席が現在もある。なお、同時期に稲葉篤紀も同じバッティングセンターに通っていた。稲葉は「隣で同い年くらいの奴がめっちゃ速いボールを簡単に遠くまで飛ばしていた」と話している。

豊山中学校では小学生時代の仲間と共に学校の野球部に所属。エースで中軸(主に3番)を打ち、中学3年の時に全日本少年軟式野球大会に出場し3位入賞を果たす。学校での成績も優秀で、学年では常にトップ10に入っていたという。地元・愛知の多くの強豪校から誘いが来たが、愛工大名電に進学する。

愛工大名電高校時代から地元では有名な選手で、愛知を代表する名門野球部において1年時からいきなりレギュラーを獲得(ポジションは三塁手で打順は主に1 - 3番) 。2年時に夏の甲子園(左翼手として出場)、3年時に春の甲子園(投手として出場)と2度甲子園に出場したものの、いずれも初戦敗退に終わっている。高校時代の監督は中村豪。松井秀喜とはこの頃から練習試合を通じて面識があった。高校3年生の地方大会での打率が7割以上を記録していた程の打者だった。3年間の高校通算打率は5割以上だという。 高校時代は投手だったが、交通事故(自転車での通学中に車と接触している)による怪我が原因で投手から野手転向を余儀なくされる。投手としても有力な選手として当時から名前が挙がっていた。

1991年ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブに入団

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隠れている部分

思案はタケノコみたいなもので、大部分は土の中に埋もれている。

                              阪田三吉





自分の考えや行動は、なかなか表に出てこない。


ちょっと掘り起こせばいいだけ・・・


ちょっとした行動だけなのに・・・
頭はもう外に出てるのに・・・


行動なんだ・・・そう行動・・・

時間を作らないと、行動する力も出ない。




wikiーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

阪田 三吉(さかた さんきち、1870年7月1日(明治3年6月3日) - 1946年(昭和21年)7月23日)は、明治から昭和初期の将棋棋士。堺県大鳥郡舳松村(現在の大阪府堺市堺区協和町)出身。旧戸籍では坂田三吉(読みは同じ)。「吉」の正確な表記は「Tsuchiyoshi.svg」(「土」の下に「口」、つちよし)である。

被差別部落出身とされる[2][3]。生業の草履表づくりを手伝いながら、将棋を覚える。1886年(明治19年)ごろ、日本橋の履き物問屋に丁稚奉公、町角の縁台将棋によく顔を出し大人を負かせるなど早熟の天才振りを見せていた。だが、将棋に夢中になるあまり背負っていた奉公先の子供を負傷させ、暇を出されたといわれている。

その後は実家に帰り家業を手伝いながら賭け将棋で腕を磨き、素人(アマチュア)の将棋指しとして大阪で有名になる。1899年(明治32年)頃、関根金次郎と堺で初対決し、惨敗したことでプロの道を決意したと言われている。この対局は両者とも賭け将棋を否定しているが、賭け将棋であるとの意見もある(岡本嗣郎「9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝」より)。関根とは1906年(明治39年)4月22日大阪阿弥陀池で二度目の対局(関根の香落ち)をする。双方互角の勝負であったが、終盤坂田が千日手を打開してペースが狂い惜敗する。坂田にとって「私を本物の将棋指しにしてくれた」一戦であった。以後坂田は打倒関根を目標として貧困や自身の眼病などの危機を乗り越えていく。さらに自身の才能を見出す後援者にも恵まれ、1908年(明治41年)大阪朝日新聞嘱託となる。こうして生活も少しずつ安定し同時に技術人格ともに成長していく。1910年(明治43年)7月、阪田三吉七段を盟主とする関西将棋研究会が設立される。

1913年(大正2年)4月、関根金次郎八段と対局(関根の香落ち)して勝利をする。この対局において後に阪田は『銀が泣いている』という言葉を残している。1917年(大正6年)に八段となり、翌年にかけて関根と平手で6局の対局をし4勝2敗と勝ち越す。だが、関根の一番弟子の土居市太郎七段に破れた。

1921年(大正10年)5月、小野五平名人死去を受け、関根が「十三世名人」を襲位した。阪田も関根の名人襲位には賛成していた。だが、1925年(大正14年)3月、京阪神の財界有力者八十余名の主唱者により名人に推薦され、「名人」を名乗る。この背景には、関東大震災の後を受けた1924年(大正13年)の「東京棋界再編」の結果、阪田以外には土居市太郎のみだった「八段」が、木見金治郎、大崎熊雄、金易二郎、花田長太郎と一挙に増えたことに対する不満があったとされる。(岡本嗣郎「9四歩の謎 孤高の棋士・坂田三吉伝」では、さらにそれに加え、阪田自身に魅力があったことと、京阪神の財界有力者達の東京に対する対抗意識がそうさせたのではないか、との推論を述べている)このことが名人僭称とされ、棋界を追放される原因となった。1937年(昭和12年)に和解し将棋大成会(現在の日本将棋連盟)に復帰。同年2月に京都の南禅寺で木村義雄八段と対局(「南禅寺の決戦」、後述)、3月には天龍寺で花田長太郎八段と対局。いずれも「後手番、初手端歩突き」の奇策を取るが、連敗した。

復帰後、八段格として第2期名人戦挑戦者決定リーグ(八段リーグ)に参加し7勝8敗の成績をあげた。その後引退し、引退後は大阪市東住吉区田辺の自宅にこもり、文字通りの隠遁生活であった。終戦直後食当たりで急死したが(少し傷んでいた鯨肉を、家族の知らぬ間に食べてしまったのが原因といわれている)、阪田の死亡を報じる新聞記事はたった10行のベタ記事で写真もなく、おまけに死亡日が3日も異なっていたという。

没後、1955年(昭和30年)、日本将棋連盟から名人・王将の称号が贈られた。大阪市浪速区の新世界の通天閣下には「王将」の碑がある。墓は大阪府豊中市の服部霊園。阪田三吉墓は清水次郎長の墓と同じ様に扱われてか、将棋の駒型の墓石を金槌で打ち欠き、その破片を勝守りとする人が絶えず、結果として墓石自体がひどく傷付けられた状態にある。

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忘れちゃ~いけない!

どんなに辛くても、自分の夢が大きければ負けない。

                    八代亜紀




しっかりとした夢!


これだけは忘れないようにしている。


こんな所で、語るのも・・・
ま~ここに書く事で自分から逃げない為に!


僕の夢は・・・・



世界を周りたい!



世界遺産や最高の美術品・・・・
言えばキリが無いが・・・




物欲のない僕は、車や洋服には、まったく興味が無い!


その代わりに、思い出を重要視している。
それは、誰よりも欲深い!


世界を好きなだけ周るには、どうしてもお金が必要なのだ!


だから無理をしてでもお金儲けをする。



40歳を過ぎたら世界を周りたいと思っているから・・・
あと5年くらいで、生涯困らない金額のお金を稼がないといけない・・・




無理!と思ったら無理!



たとえ無理と言われても、僕はやらないといけない!
自分の夢の為に・・・



wikiーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

八代 亜紀(やしろ あき 本名:増田 明代(旧姓:橋本)、1950年8月29日 - )は日本の女性演歌歌手、画家。熊本県八代市出身。読みは違うものの、芸名は出身地の八代(やつしろ)市から採っている。

幼少の頃から父親の歌う浪曲を子守唄代わりに聴きながら育つ。そうした影響もあり、八代は歌好きの子供になり、地元のコンクールなどにも出場していた。

その後、八代が小学5年生のとき、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き、そのハスキーボイスに魅せられる。もともと自身もハスキーボイスの持ち主だった八代は、その声に若干のコンプレックスがあったようだが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになる。

中学卒業後、地元熊本のバス会社九州産業交通(現 九州産業交通ホールディングス)のバスガイドとして勤務した後、15歳で父親の反対を押し切り上京[2]。銀座のクラブ歌手となり、スタンダードやポップスなどを歌った。

1971年、テイチクより「愛は死んでも」でデビュー。オーディション番組YTV『全日本歌謡選手権』に出場、10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンに輝く。1973年の「なみだ恋」が120万枚[3]の大ヒット。その後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発。また、1979年には新境地を開拓した初の男歌「舟唄」を発表し大ヒット、翌1980年に発表した「雨の慕情」でレコード大賞を受賞。これら2曲は「港町絶唱」と共に、阿久悠と浜圭介そして竜崎孝路のコンビによる哀憐三部作と呼ばれた。演歌歌手にしては稀な連続ヒットと国民的ヒット曲により、女性演歌歌手として不動の地位を築く。1982年、センチュリーレコードに移籍し「海猫」「日本海」「恋瀬川」などを発表。そして1986年、日本コロムビアに移籍し、現在に至る。

演歌歌手には珍しく、全盛期においては出す曲全て連続ヒットを記録しており、女性演歌歌手の中では総売上枚数がトップである。なおオリコンのシングルチャートにおけるトップ10獲得作品数も通算7作で2011年6月に水森かおりの8作連続シングルチャートトップ10を更新されるまで女性演歌歌手歴代1位をキープし続けていた。また、アルバムも好セールスを記録しているため、オリコンの総合アルバム・チャートには5作品をトップ10に送り込み、演歌歌手としては、氷川きよし、五木ひろし、森進一に次ぐ第4位の記録である。総合アルバム・チャート・トップ10獲得連続年数は3年連続(1974-1976年)で、演歌歌手としては、氷川きよし(7年連続)、五木ひろし(4年連続)に次ぐ第3位の記録。([1]→共にオリコン調べ、2007年9月現在)

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NOと言える勇気

きっぱりノーと言えることが、人生を楽にしてくれる。

                     
                         大島渚






どうしても、感情等に流されてNOと言えない



これも、自分の甘さから来るもの・・・



あの時しっかりとNO!と言えてれば

もうちょっと楽に生活出来てたろうに・・・・





借金が山ほどあるのに、困っている人にお金を貸してしまったり
商売が上手くいっていないのに、従業員を解雇出来ないでいたり・・・


力が無いのに、人に手を差し伸べた所で、足の引っ張り合い
結果的に上手く行くわけがない・・・・





wikiーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大島 渚(おおしま なぎさ、1932年3月31日 - )は、日本の映画監督。夫人は女優の小山明子。現在は神奈川県藤沢市在住。

1959年に『愛と希望の街』で映画監督デビュー。社会性の高い作品に特徴があり、権力機構に侮蔑される側にいる人間の屈辱感を厚みを持って描き出し、権力に闘争的に対峙する作品は日本国内で早くから注目を集め、松竹ヌーベルバーグの旗手とも呼ばれた[1]。1961年に松竹を退社するとテレビドキュメンタリーにも活躍の場を広げ、政治的・ジャーナリスティックな作品を手がけた。1976年の『愛のコリーダ』(L'Empire des sens)、つづく『愛の亡霊』(Empire of Passion)で、人間の愛欲の極限を描き出し、国際的な評価を確固たるものにした。このほか世界的に話題を呼んだ映画作品に『戦場のメリークリスマス』(1983年)、『御法度』(1999年)などがある。

海外における知名度は高く、アレクサンドル・ソクーロフ、テオ・アンゲロプロス、マーティン・スコセッシ、チェン・カイコーなど大島を敬愛する著名な映画監督・評論家は少なからずいる。ゴダールが『映画史』において取り上げた日本人監督は溝口健二、小津安二郎、勅使河原宏と大島の4人だった。

テレビ出演も多く、1980年代後半から『朝まで生テレビ』(テレビ朝日系)のレギュラーパネリストとなり、評論やコメンテーターとしても活躍した。

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自分の為だけにやればいい!

自分の存在価値のある仕事をしたい。
人のことでイライラしているヒマなんてない。

                大谷由里子






人にいらいらしたりする事は、
仕事していると・・・沢山ある・・・


しかし、今働いている所の偉い人に言われた事をいつも思い出す。



「俺の為とか、会社の為とかやる必要ない!」

「自分の為だけにやりなさい!」



????????いいの??????って思うでしょ???


「お前が自分の為にやれば俺が儲かるように出来ている」


?????



とても、深い言葉だ・・・


自分の為だけにやる、タダそれだけでいい?


それだけで会社が儲かる?


これは、社会の仕組みが凝縮されている言葉だった。
考えれば考える程、奥が深い


しかし、ちょっぴり腹が立つ・・・


今はその言葉を信じて自分の為だけに・・・がんばってます。


スキルを磨き、借金を返す!


ただ自分だけのために!



wikiーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大谷由里子(おおたに ゆりこ、旧姓・松岡、1963年2月21日 - )は、フリーのプロデューサー。奈良県出身。

1985年にノートルダム女子大学卒業後、吉本興業へ入社。横山やすしのマネージャーとなる。 マネージャー時代、「スター爆笑Q&A」に泥酔して出演した横山に激怒し、セット裏でビンタを食らわす逸話で著名となり、現在でも語り草となっている。1988年に結婚のため、退職。翌年出産。結婚祝いにやすしから「贈り物は印象の強いものが思い出に残るやろ!」という想いから、緑色の冷蔵庫をプレゼントされる。1990年にフリーのプロデューサーとして活動再開。クラヤ三星堂の新規事業プロジェクトのスタッフとなる。1991年にプラニングオフィス「有限会社SMS」を設立し、1994年に有限会社を株式会社に変更する。1998年には吉本興業とジョイントで「よしもとリーダーズカレッジ」を立ち上げ、2000年には吉本興業とプロデューサー契約締結し、吉本に契約社員として復帰。2003年に吉本興業を退社し、有限会社志縁塾(本社大阪市)を設立。人材教育を中心に会社・学校・官庁関係に対して営業を開始する。2006年、拠点を東京へ移転。「リーダーズカレッジ」は、継続して実施されている。(東京・大阪・広島・富山)(2006年開催校)

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さいころ1

Author:さいころ1
飲食店を3件経営!
その後・・・・破綻ww
借金1千万円を背負いながら
元気に生きてます。

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