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高い授業料

不運は確かに偉大な教師だが、その授業料は高く、
それから得た利益はしばしばそれに費やした費用に匹敵しない。

                         ジャン=ジャック・ルソー



失敗しないならしない方がもちろん良い!
失敗により学ぶ事は沢山あるが、失敗により遠回りする必要もない。

若いうちの苦労は買ってでもしろというが・・・
実は、あれは精神論だったのか?
自分は、起業し倒産・・・本当に高い授業料を払ってしまったのか?

今の段階では・・・何も言えないが、
結局の所これから先不運という偉大な教師から学んだ事を糧に出来るかどうかだろうな。

やる気一つ!がんばり一つ!

完済人になるぞ~




wikiーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712年6月28日 - 1778年7月2日)は、スイス生まれの哲学者・政治哲学者・教育思想家・作家・作曲家。単なる純理論にとどまらない、多感さを反映した著作は広く読まれ、フランス革命やそれ以降の社会思想にも多大な精神的影響を及ぼした。

1712年、スイスのジュネーヴに時計職人の息子として生まれるが、母は8日後に死去。

7歳頃から父と共に小説や歴史の書物を読み、理性よりも感情の優位を説く思想の基礎を築いた。1725年に父と兄が家を出てしまい、ルソーは牧師に預けられたのちに彫金工に弟子入りをするが3年後に出奔し、放浪生活を送る。

1732年にジュネーヴを離れ、ヴィラン男爵夫人に庇護されながら、さまざまな教育を受け、その愛人となった。この時期については晩年、生涯でもっとも幸福な時期として回想している。

夫人と別れたのち、1740年から1741年にかけてリヨンのマブリ家(哲学者マブリ、コンディヤックの実兄の家)に滞在、マブリ家の家庭教師を務める。この職を辞した後、1742年に音楽の新しい記譜法を発表し、それを元手にパリに出てディドロらと親しくなる。これがきっかけで後の一時期、『百科全書』に原稿を執筆している。1745年、下宿の女中テレーズを愛人とし、10年間で5人の子供を産ませ、5人とも孤児院に送った。しかし1750年にディジョンのアカデミーへの懸賞論文「学問及び芸術の進歩は道徳の純化と腐敗のいずれに貢献したか」において執筆した『学問芸術論』が入選してこの不遇状態は一変、以後次々と意欲的な著作・音楽作品を創作する。ベストセラーとなった書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』(1761年)、『社会契約論』(1762年)などはこの時期に書かれている。ただしこの間、ヴォルテール、ダランベール、ディドロら当時の思想界の主流とほとんど絶交状態となった。

1762年はじめに教育論『エミール』が刊行されると、その第4巻にある「サヴォア人司祭の信仰告白」のもつ自然宗教的な内容がパリ大学神学部から断罪され、『エミール』は禁書に指定され、ルソー自身に対しても逮捕状が出たためスイスに亡命した。亡命中は、スイス、イギリスなどを転々としたが、彼を保護したイギリスの哲学者ヒュームと不仲になり、1770年、偽名でパリに戻った。パリでは、亡命中から執筆していた『告白』を書き上げ、続いて『孤独な散歩者の夢想』を書き出したが、この作品は未完のままパリ郊外で亡くなった。

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

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その後・・・・破綻ww
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